AIDS and Its METAPHORS

病気を罰と見た昔から、隠喩はある種の病気に(根深い不安を代弁することによって)スティグマを押し付け、さらにすすんで、病気の人々にもスティグマを押し付け続けてきた。病人にとっては病気そのものがすでに耐え難い重荷であるのに、さらにこの病気になったという評判そのものが、当人の苦しみを増進させるという装置が現代においても働き続けている。

エイズについての隠喩はわざわざここで書くまでもないだろうが、例えば結核については、19世紀から20世紀の初めにかけて、過敏な人々、才能がある人々、情熱のある人々を襲いやすい病気とされていたという。どちらかというと良い隠喩だ。その一方で、癌は心理的な挫折感をもつ人々、感情表出の苦手な人々、抑圧のある人々、とくに怒りや性的感情を抑圧している人々が、とくにかかりやすい病気とされていたという。このような隠喩と神話が、多くの人々に、ある種の病にかかることに対する恥かしさや罪の意識を不必要に植え付けてきた。

「多くの罪と恥の意識を掻立てる病いを、意味や隠喩から切り離すためにはいかにしたらよいのか」、スーザン・ソンタグはこの問いに、「暴露し、批判し、追及し、使い果たさねばならない」と、はっきり回答を示し、「隠喩と神話は人を殺す」とも言う。

スーザン・ソンタグ著『エイズとその隠喩』が扱っているのは、<健全な自分たち>と<危険な他者>の問題だ。東北地方太平洋沖地震では、放射能チェックが騒がれているが、今の状況下においてもまさに考えるべき問題だと思う。

疫病をめぐる平均的なスクリプトの一特徴−病気は必ずどこか別の場所から来るとすること。15世紀の最後の10年間にヨーロッパを流行病として席捲し始めた梅毒の呼称は、恐ろしい病気を外来性のものとするのが必要であることの典型的な見本であろう。それはイギリス人にとっては「フランス病」、パリの人間にとってはゲルマン病、フィレンツェの人々にとってはナポリ病、日本人にとっては中国の病気であった。しかし、この愛国主義の抜きがたさについての冗談とも見えるものが、実は重要な事実を、病気を想像することと外来性を想像することの間にはつながりがあることを明らかにしているのだ。(スーザン・ソンタグ著、富山太佳夫訳「エイズとその隠喩」より)

私自身の話になるが、昨日私は身体の不調に耐え切れず、久々に病院という機関を訪れた。まず、入退館の際に手のアルコール消毒を求められ、風邪かもしれないと言った途端にマスクの着用を求められた。体重や血圧測定等一連の検査のあと、足を揺り動かしながら神経質そうに話す医師は、検査結果について何の説明もしないまま、薬についての事務的な説明をしたのみで診察を終えようとした。慌て原因や予防方法を聞くと、投げやりに簡単な説明をしたあと、病気を防ぐことが出来なかったことについて私に非があるような言い方をした。苦しいし薬をもらいたいので場を荒げることはしなかったが、私の場合、よく知らない医師に診察を受けるとき、なぜかこの種の辱めを受けることが多い。だから、病院には極力行きたくない。

この出来事がエイズとその隠喩』を読むきっかけを与えてくれたわけでもあるのでまあ良しとする。

診察を受けた後、マスクをつけたまま会社に向かったが、花粉症の時期にもなり、街は老若男女マスクのお仲間ばかりだった。私自身マスクを着用しなければ駄目な場合はよくあるが、マスクという装いについても見た目の不恰好さが嫌いという理由以上に嫌いな理由がある。マスクもまた隠喩を持つもののように思えるからだ。ちょうど良い文章があったので引用する。

足の速い流行病はすべて、おおよそ似たような回避と排除の行為を生み出すものだ。1918−19年のインフルエンザ大流行のおりにもーインフルエンザは空気によって運ばれる(呼吸器官によって伝えられる)ウイルスが原因の、極めて伝染しやすい病気ー人々は握手には注意するように言われ、キスをするときはハンカチで口をおおうように強く勧められた。警官は、病人の出た家に立ち入るときにガーゼのマスクを着用するように命じられた。(スーザン・ソンタグ著、富山太佳夫訳「エイズとその隠喩」より)

ということだ。ファッションを考えたり、文章を書いたり行動したり、何をする際にもひろく隠喩や意味を理解してから選択したいと思うけれど、同時に反対の意味を持つことがあるものがあったり、自分自身が他の人の行動に過敏に反応してしまうようになりそうで難しいことだとも思う。

コンピュータを扱う仕事柄、ついでにこの文章も忘れないよう書き留めておく。

コンピューターを使う人間は、新しいソフトウェアをウイルスの「潜在的な保菌者」とみなすように教えられる。「出所を確認せずにディスクをコンピューターに使わないこと」。市販されているワクチン・プログラムなるものである程度は防げるとも言われるが、コンピューター・ウイルスの脅威を確実にくい止める唯一の方法は、専門家によれば、プログラムやデータを共有しないことにつきる。消費文化とは、あらゆる種類の品物とサービスを消費する人々に、もっと用心せよ、もっと自分中心になれと警告することによって、実ははずみがつくものではないのだろうか。なぜならば、こうした不安は、商品やサービスのさらなる再生産を要求するものであるから。(スーザン・ソンタグ著、富山太佳夫訳「エイズとその隠喩」より)

隠喩としての病い・エイズとその隠喩

隠喩としての病い・エイズとその隠喩