権力空間としての江戸


最近、現代日本プレカリアートと江戸の都市下層民は似ているな、とずっと思い続けていているのだが、研究テーマとして面白いな、と思っているので、続けてみようと思う。前回、江戸をユートピア的にとらえている杉浦日向子さんについて書いたが、今回は、江戸幻想批判的な意見を持つ櫻井進さんの『江戸の無意識』という本を読んで。

江戸の下町情緒的なイメージは、実は、江戸の都市下層民が権力構造から逸脱しようとする衝動によって生成されたイマジネールな世界であり、実は、都市下層民にとっての江戸は、おどろくべき恐怖の権力空間であった、というのが、この本の主旨だ。

われわれが下町情緒として江戸に見いだしている世界は、江戸の都市下層民のイマジネールな世界なのであり、いつ転落するかわからない「板子一枚下は、地獄」的な生存の不安から逸れようとして夢想した空間なのである。江戸落語に存在しているのは、そういった不安な生存における死の意識であり、孤独で悲惨な生存条件からの逸脱を美的な様式によって実現しようとする「生存の美学」(W・ベンヤミン)であったのである。 (『江戸の無意識』櫻井進) 

われわれ自身の生の不安がイマジネールな江戸に治癒の空間を発見しようとしているのである。(『江戸の無意識』櫻井進)

なるほど。私は、やはり生に不安を感じているから江戸に強く惹かれていたのか。自分で何となくそうなんだろう、と思っていたことがきちんとした言葉で説明されていた。


南総の館林に十三年暮らして、江戸に帰った荻生徂徠は、資本主義によって病んだ都市江戸の異常な興奮と「自由」に、共同体を崩壊させるノイズ(雑音)を見いだした。喧騒と興奮に満ちた江戸を農村的な自己充足的共同体に回帰させようとする『政談』の構想は、現実的には江戸を規律=訓練的な近代社会の権力空間に変容する試みであった。

彼は、ペストのように細部まで浸透してくる資本主義の病弊−いうまでもなくそれは貨幣の特性である−を防ごうとしたのであるが、彼が構想した社会は微細な権力というもう一つのペストによって汚染された近代的な規律=訓練的な都市であった。(『江戸の無意識』櫻井進)

徂徠は、江戸の都市下層民を政治的操作の対象として認識し、都市下層民が資本主義経済の市場原理の中で「自由」に動き回り、江戸の社会システムのノイズとなることを抑制すべきだと考えたわけである。 (『江戸の無意識』櫻井進)

徂徠が構築しようとしていた権力空間は、まさにミシェル・フーコーが、『監獄の誕生−監視と処罰』の中で、近代の規律=訓練的なモデルとして規定している「ペストのモデル」であり、徂徠はそうしたミクロ権力的な都市空間を社会の細部において実現しようとしていたようだ。この「ペストのモデル」とは、「規律=訓練が加わる社会」への「政治的夢想」の所産である。 

最近、若者の就職支援として厚生労働省が行っていたいろいろな取り組みが思い出された。仕事力をつけるための合宿やら、面接の訓練やら、若者にやる気を出させるためのカウンセリングやら・・・。

それらは、就職したくても出来ない若年者のためのもの、ということだが、そして、確かに職の無い若者は実際困っているかもしれないが、要するに、自分達(国側)が困るからというただそれだけの理由で、そういう取り組みをしているように感じられてならない。なので、その支援も的外れな感じで、私は違和感を持っている。そういう風に、個人を規律=訓練の直接的な対象とするよりも先に、せっかく莫大な費用を使うならもっと良い方法があるだろう?と思う。

店借や裏店の借家人、江戸無宿、遊民だけではなく、滝沢馬琴(一七六七−一八四八)のような下級武士も江戸の都市下層民として規定することができる。下級武士も含めた彼らは、実際にはルンペン・プロレタリアートであるか、あるいはそこに転落する可能性を持った存在である。江戸の町人層の特徴として借家人が多く、彼らの職業は棒手振りや物売りなどの熟練を要しない職業についており、病気や火災によっていつルンペン・プロレタリアートに転落してもおかしくはない存在である。実際、店持ちの商人までが一夜の火災によって一瞬に転落したケースもある。
ルンペン・プロレタリアートや無宿に転落した彼らは、人足寄場に監禁され、そこで労働刑を科され、生産の主体に矯正される運命にあった。要するに、江戸とはイエの安定性を欠いた世界であり、町人だけではなく下級武士にもそういった転落の危険が存在していたのである。(『江戸の無意識』櫻井進) 


「江戸っ子は宵越しの金は持たない」とは、実は宵越しに金を持ちたくても持てないのである。ただ、流民都市江戸は、宵越しの金を持たない人間に、宵越しの金を持てない程度のアルバイトを提供していたのである。 (『江戸の無意識』櫻井進)

面白かった部分を引用しだすとキリがないけれど、最後の方では、北斎を取り上げ、

規律=訓練的な権力社会からの逸脱は敵意に満ちた闘争によっては実現されない。それには、より非権力的で快楽的な生を追求する「生存の技法」(W・ベンヤミン)が必要とされる。だから、北斎の虎は、闘争する敵意に満ちた存在から、今生きているのとは別の場所へ逸脱し、現実から闘争*1しようとする「雪中の虎」へと変身したのである。(『江戸の無意識』櫻井進)

というようなことも書いてある。江戸幻想批判を読むのもまんざら嫌なものではないと思った。ここを読んで、むくむく元気が出てきた。「さすが、北斎先生!」

他にも、都市下層民のカウンター・カルチャーと平田篤胤の親近性やら「フランケンシュタイン」まで取り上げられる視野が広いこの本、只今絶版中というのは残念な話だ。

江戸の無意識―都市空間の民俗学 (講談社現代新書)

江戸の無意識―都市空間の民俗学 (講談社現代新書)

*1:逃走の間違いではありません。