トランスセクシャルの可能性

やおい」という言葉はずっと知らなかったけれど、友達に、私の好きな作家の1人を「やおいの人でしょ?」と言われ、その言葉を知った。どうやら、1980年代くらいからコミケに集う同人誌作家たちの間で使われるようになった造語で、「ヤマなし、オチなし、イミなし」の頭文字をつないで造られた言葉らしい。おおざっぱにくくると、男性同性愛をモチーフにした小説や漫画のジャンルを指すようだ。確かに、私の好きなその作家は、男性同性愛をモチーフにすることが多かった。私は、自分がその作家の作品を好きなのは、男性同性愛をテーマにしているからだとは思っていないし、そう言われたからといってその作家を「やおい」小説を書く作家と認識したわけでもない。でも、その言葉を知ってから「やおい」を意識するようになった。ひとつのジャンルになるほど、「やおい」が人気である秘密を知りたいと思っていた。

そこで、榊原史保美やおい幻論』という本をみつけ読んでみた。著者もそのことを指摘しているが、「やおい」について研究された本は、意外と少ない。自分の小説が「やおい小説」と呼ばれることに違和を感じた著者によるこの本には、「やおい」の歴史も書かれており、同じようなことが何度も述べられているため読みにくく感じた部分もあったけれど、なかなか面白かった。

著者は、『小説JUNE』でデビューした作家だ。私は、この『JUNE』という雑誌のことを女性のためのポルノ雑誌とだけ思っていたが、どうやら、『JUNE』は(少なくとも初期は)そういう雑誌ではなかったらしい。そのことがわかっただけでも大きな収穫だった。

著者は、『小説JUNE』の創刊をはさんで生まれた「やおい小説」と呼ばれる作品を<ブーム以前からの小説>とし、コミケの活性化とともに商業的な成功を見込んで量産された「やおい小説」を<ブーム以後の小説>と区別して論を進める。ブーム以前の小説とブーム以降の小説は、まったく質の違うものであるようだ。一般の人々の頭の中にでき上がりつつある「やおい」=ホモセクシャルなポルノという図式は、ブーム以後の小説から生まれたイメージらしく、ブーム以前の小説は、「ヤマなし、オチなし、イミなし」と作家自身が卑下するような性質の小説ではなかったらしい。

後半、著者は、「やおい」的嗜好の持ち主の多くは(無自覚の者も含む)トランスセクシャルなのではないか、という仮説を持ち出している。「やおい」少女(最近は、「腐女子」とも呼ばれるらしい)たちには、それを読まずにはいられない理由があり、「やおい」作家たちにも書かずにはいられない理由があると。(金儲けのためだけに「やおい」作家である人を除き) 複雑になるのでここで簡単にまとめることはできないが、本の中ではこの仮説に説得力のある説明がなされている。

私は、「やおい」と混同されがちな耽美的なモチーフはものすごく好きだと思う。『枯葉の寝床』なんかを書いている森茉莉も大好きだ。(実際、「やおい小説」は、「耽美小説」と呼ばれたりもしている) 男性同性愛小説を読まなければ生きていけないと思うほどに切実な欲求はないけれど、それに嫌悪を感じたりせずにすんなり受け入れている。<「やおい」的嗜好>は、持っているのだと思う。自分のトランスセクシャルの可能性について考えドキドキした。

やおい幻論―「やおい」から見えたもの

やおい幻論―「やおい」から見えたもの