いちブロガーとして(2)
高校野球のニュースはつい気になってみてしまう。ついでに言うならオリンピックのニュースもついついみてしまう。普段、スポーツには関心を持てないでいて、あまりに関心を持てないでいることがかえって悩みであるのにも関わらず。
試合を何が何でもみたいわけではなく、試合結果の確認程度で充分なのだが、「これってちょっとぷちナショっぽい?」とふと思った。「たかだかニュースが気になるくらい、ぷちナショでも何でもないか」と考え直したけれど、ぷちナショナリズムについて、どんな定義だったか再確認したくて、キーワード検索してみた。※「ぷちナショナリズム」とは香山リカの造語で、『ぷちナショナリズム症候群−若者たちのニッポン主義』に詳しい説明がなされている。
検索してみて驚いたのは、この本に対し否定的な文章にやたらと出くわしたことだ。それもきちんとした批評というより、どちらかというと感情的な評が多かったことに驚いた。
昨日から、自分のブログを書くスタンスを考えているけれど、極力感情的な意見は抑えて書きたい。私は、本や映画の感想を書くことが多いけれど、どうしても感覚的に好きか嫌いかで判断し、その理由を曖昧なまま分析もせずに文章に出してしまっていることが多いと思う。何らかの対象に批判的な文章を書く場合には、そう思う理由を必ず明らかにしたいと思う。
話はもとに戻り、どうして「ぷちナショ」っぽいことに敏感になっていたかというと、『ぷちナショナリズム症候群』を読んだ人がセットで読むことが多いであろう香山リカの『<私>の愛国心』を読んだからだ。
この本の本文よりも印象に残ったのが、あとがきに書かれていたことだった。
大学の研究者と話していて、その研究内容と本人の生活態度や心情があまりにかけ離れていることを不思議に思うことがあった。 (『<私>の愛国心』香山リカ)
これは、まさに私が不思議に思っていることでもあった。(大学の研究者と話すときだけではなく、それ以外の人と話しているときにもよく思う。呑み屋でアルバイトをしていた頃など、ほぼ毎日その不思議について考えていた。)
香山リカはかつて「研究や仕事と、その人個人とは別だ」と思っていたらしく、私も、その疑問を誰かにぶつけると、大概そのような意見を返された。しかし、香山リカは、社会的な自己と私的な自己とに断絶があるように見える彼らだけれど、本当は両者のあいだにはやはり関係があるのではないか、と思うようになったそうだ。
私的な自己のほうが本来の姿で、それを隠蔽したり、打ち消した気分になったりするために、逆に社会的な場面では立派なことを言ったりやったりしているのではないか。
これは言うまでもなく、人間の表立った言動の多くは、無意識に潜む葛藤やコンプレックスを防衛するためになされる、というフロイトの考えにもとづいたやや意地悪な発想だ。(『<私>の愛国心』香山リカ)
そして、すでに自信家の国としてのアメリカと、「自信家にならねば」と躍起になっている日本、そして、自信家になるための条件としての愛国心という本文でも論じられていたことに、この発想をつなげて考えてみている。
一度、<私>についてそれぞれが徹底的に向き合わなければ、個人を超えた歴史認識や世界認識など、私たちは持てないのではないか。もちろん、「愛国心」はそれを持たせてくれる、などというのはまったくのファンタジーでしかない。 (『<私>の愛国心』香山リカ)
私にとってブログを書くことは、ブログがある程度公共性を持つという点で、社会的な発言と言えると思う。自分が社会でどのようにありたいのかを確認する手がかりとも出来るものだ。そのことが、私自身を知ることにも繋がると思う。<私>と向き合うという意味でも、ブログを書くことは私にとって価値のある実験かもしれない。と、今日新たに、いちブロガーとして思った。
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