20世紀の画家たち

20世紀は、大量殺戮・戦争の世紀であった。徐京植『青春の死神』は、20世紀前半、世界戦争の真っ只中に生きた画家31人の物語。とりあげられた何れの絵にも戦争の影と画家の戦争に対する態度が色濃く反映されている。

ピカソゲルニカパウル・クレー「新しい天使」のエピソードなど、西洋の画家のエピソードは私にとって馴染みのあるものだったが、池田遙邨田英夫靉光など、今までその絵を目にしたことはあってもどんな人生を送ったのかよく知らなかった日本の画家のエピソードがとても興味深く読めた。

特に、長谷川利行という画家の生き様には驚いた。画才が認められた後も生来の放浪癖と飲酒癖がおさまらず、山谷のドヤで暮らし、タバコの箱やダンボールの切れ端などに絵をなぐり書いて二束三文で売り歩いていたという。行き倒れとなって養育院に収容され、詩人の矢野文夫が見舞いに行った時のエピソードなど、ゴッホの耳を切り落としたというエピソードに匹敵するくらい迫力がある。「鬼気迫るその生きざまには、たしかに、ある種の「あこがれ」すら抱かせるものがある」と著者の徐京植が書くように、誤解をおそれずに言うと「かっこいい」、つまり普通の人には真似しようにもなかなか出来ない生き方なのだ。

彼の絵を多く持っているのは、福島市の百点美術館のようだ。この本に紹介されている靉光の絵もあるらしい。行って本物をみてみたいな、と思う。(東京国立近代美術館にも利行の「岸田國士像」があるらしい)

この本に登場する画家の多くは、20代か30代の若さで亡くなっている。彼らの絵は、狂った時代の空気の中でまともな考えを持ちその閉塞感に抵抗しようとした気骨溢れる若者がいたということを証明している。彼らのほとんどが若くして苦しみのうちに亡くなっていることは私たちに痛ましさの感情を与えるが、彼らの遺した絵は後世の者に彼らが持ち得なかった希望と教訓を与える。

エッセイの最後に、戦争画を描いているのだけれど、それまでの14人とはちょっと反対のタイプにみえる藤田嗣治を選んでいるのは意味深い。

私自身も原則的には戦争画の全面公開に賛成である。ただし、それは、「政治」によって封印されている「名作」を解禁せよと唱えるためではない。「まったく美術上の観点から」見たときにも日本の戦争画には芸術的価値が乏しいことを明らかにすべきだと思うからであり、今からでも「絵描きオタク」たちの戦争責任を明確にすべきだと考えるからである。もっとも、責任のがれの国民的共謀関係がますます強固なものになり、「自国の正史を誇れ」などというダミ声までがしきりに聞かれるようになった現在の日本社会で、戦争画が私のいう意味で「正当に」評価されるかどうか、自信はない。ひょっとすると、日本人たちはまた戦争画の前に賽銭箱でも置きかねないのではないかと私は疑っている。(徐京植『青春の死神』)