クジラの歌と新しいメディア社会

「誰も機械から逃れることはできない。機械だけが、人間を宿命から逃れさせてくれるのだから」(トリスタン・ツァラ

20世紀における<芸術>と<技術>の問題について書かれた伊藤俊治『機械美術論−もうひとつの20世紀美術史』のなかで、とりわけ面白いと思った章「ニューランドスケープ」は、ビル・ブイラ(ヴィデオ・アーティスト)の「人間の見るという行為の新しい概念は、イルカやクジラが発信音を出し、その反射によって頭のなかで物体を見るということにあるのではないだろうか」という言葉から論が進められる。

ザトウクジラのうたう歌には主旋律が必ずあり、それは繰り返しの規則性を持っているようなのだけれど、毎年自分で歌のメロディを変えているようである。

クジラは人間以上の数千万年の歴史を持つといわれているが、だとすれば、現在、うたわれているザトウクジラの歌の中にはその途方もない太古のクジラたちの感情もまた折りこまれているのではないだろうか。世代から世代へとそのうたう身振りや世界に対する姿勢が、人間の文字や映像と同じように歌へ積層化されているのではないだろうか。その歌にはひとつの内臓秩序のように過去と現在と未来が同時にたたみこまれているのではないか。
(伊藤俊治『機械美術論−もうひとつの20世紀美術史』)

すごくロマンチックな話である。
これが、下記のような文章に繋げられていく。

クジラやイルカは言語を持たないが、世代から世代へとその歴史や経験を語り継ぐ方法を内包している。道具をあみだし、物をつくり、それによって文化を築いてきた人間とは逆にクジラやイルカはオブジェを持たないコミュニケーションだけの文化を築き上げているのではないか。そして、その文化構造とはわれわれを取り囲み始めている新しいメディア社会の構造と共振性を持ち、そのことはこれまでとは全く異なった文明の形式の幕開けを告げようとしているのではないだろうか。(伊藤俊治『機械美術論−もうひとつの20世紀美術史』)

人間は、<思考><推理><自己プログラミング>が可能なコンピュータを完成させた。
現在、私達は「科学技術が人間の意志から独立し進化する(機械を人間がコントロールできなくなる)」ことへの不安を抱えつつ生きなければならず、ツァラの言うように、もはや機械から逃れることはできなくなっている。人間のほうがそれまでとは別種の価値を身につけていく必要があるのかと思うと、機械に対して否定的になってしまいがちだけれど、

たぶん機械はもともと単なる人間の身体の外的な延長としての道具や機能的で合理的な機構や仕組みとしてではなく、人間自身の身体器官の再構成や非合理の深い鉱脈を探査するために生み出されたものなのだろう。(伊藤俊治『機械美術論−もうひとつの20世紀美術史』)

と著者はまとめている。ヴァルター・ベンヤミンアーサー・C・クラーク、ジョン・C・リリー、フィリップ・K・ディックらの言葉を読み解きながら、彼が如何にしてこのような考えに至ったのか、その軌跡を知ることが出来る本だ。

ところで、この本には「LSDの教祖」ティモシー・リアリイが、ウィリアム・バロウズウィリアム・ギブソンらと開発したというゲーム・ソフト、「マインド・ミラー」「マインド・ムーヴィ」が紹介されている、

このソフトを用い、人の性格をコンピュータにインプットすると、そのデータから様々な人々の人格を比較したり、<他人から見た自分>と<自分が思っている自分>との違いを知ることが出来るらしい。またある行動時の心理状態を、あらかじめ入力しておいた情報と対比させることで、他人の人格と行動を学習してゆくことも出来るようだ。なんて面白そうなソフトだろう。

早速、可能なら入手したいと思っていろいろインターネットで調べてみたけれど、もうかなり昔のアメリカのソフトだし、ソフトに合わせた環境を整えなければならないことも考えると実際にプレイしてみるのは相当難しそうであった。誰か、現代の一般大衆向けに再現して作ってくれないだろうか。

機械美術論―もうひとつの20世紀美術史

機械美術論―もうひとつの20世紀美術史