シャイロックのこと

映画ヴェニスの商人を観た。シェイクスピアのこの作品を読んだのはもうかなり昔の話で、ストーリーを覚えている程度だったのだけれど、映画を観たことをきっかけに、シャイロックというキャラクターの面白さが新たにみえてきた。

ヴェニスの商人で、ユダヤ人の金貸しシャイロックは、外国人としてヴェニスキリスト教徒に差別されている。ハイネが「シャイロックの悲劇」と言ったというように、シャイロックをただの悪人としてみるのではなく、この話をシャイロックの側から捉えるという見方は別に新しいものではないようだけれど、初めて読んだ時、私には全くそのような見方をする下地がなかった。これは、シェイクスピアの時代、喜劇として演じられていたのだけれど、観る者によっては悲劇になる物語なのだ。

鑑賞後、シャイロック以外の登場人物ほぼ全員に対する嫌悪感でいっぱいになり、多分に感情的になっている自分に気付いたので、「これはいかん」「落ち着いて考えなければ」と、テリー・イーグルトンの力をお借りした。

シャイロックが裁判に負けたことの理不尽さ、他の登場人物の俗悪さ、などについて、テリー・イーグルトンは、冴えた頭できっちりと何がおかしいのかまとめてくれていた。(本当は、自分でここまで考えられたら良いのだけれど…)

……ポーシャの読解は、あまりに忠実なゆえにかえって異常であり、一歩まちがえば「私法」を容認しかねない。テクストに関する彼女の解釈にみられる徹底した厳密さは、証文に書かれた要求を実施するようせまるシャイロックの冷酷さと軌を一にしている。以上のことから私はこういいたい。シャイロックはたとえ裁判に負けても、彼の主張の正当性は、誰の眼にもはっきりと立証されたのだ、と。彼が「非人道的な」法律尊重主義をおしとおしたがために、キリスト教徒は、さらにもっと非人間的な法律尊重主義に陥るはめになった。だから、シャイロックは、最初から裁判に勝とうとは夢にも思っていなかったのだ。そう考えてもあながちまちがいではあるまい。そもそも彼は裁判に勝てるような立場にない。彼は、孤独で、差別されるよそ者、外国人である。その彼が相手にするのは、権力をもち、誰もが同じクラブのメンバーであるような支配階級なのだ、おそらく彼は、ある種の学者めいた関心で、キリスト教徒が自分たちの仲間を苦境から救おうとして、どんな手をうってくるか、そのなりゆきをながめているのだと、こう想像することもできる。……(テリー・イーグルトン『シェイクスピア−言語・欲望・貨幣』)

シャイロックは、法廷の空虚さを天下に知らしめようと、あえて法廷を挑発しているとする考えである。法が法を守るために、解釈上の詭弁を弄さねばならなくなったとしたら、その最悪の帰結は政治的無秩序であるからだ。シャイロックの台詞で、その毅然と差別に立ち向かう様がカッコイイとさえ感じられる言葉は以下をはじめとしてたくさんある。

わたしはユダヤ人だ。ユダヤ人には眼がないとでもいうのか。ユダヤ人には、手や内臓や五体や感覚や感情や情熱がないとでもいうのか。ユダヤ人はキリスト教徒と同じ食べ物を食べてはいないのか。同じ武器で傷つかないとでもいうのか。同じ病気にかからないとでもいうのか。同じ薬で治らないとでもいうのか。冬や夏には、同じように寒がったり暑がったりしないとでもいうのか。われわれを突き刺しても、血がでないとでもいうのか。われわれに毒をもっても、死んだりしないというのか。くすぐっても、笑わないとでもいうのか。ひどいめにあわせても、われわれが復讐などしないと、たかをくくっているのか。もし、われわれが、その他の点でおまえたちと同じなら、おまえたちと同じように、復讐するさ。(シェイクスピアヴェニスの商人』)

人肉をとろうとするなんて、ホラー映画張りに猟奇的だ。多分、子供向けの恐ろしいシャイロックの挿絵などついている本を読んだのだと思うけれど、まずはシャイロックのことを悪役と思い込んだ私には、シャイロックの重要な台詞の数々がきちんと読めていなかったのだと思う。このような構造に陥るということは実に恐ろしいと思った。

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シェイクスピア―言語・欲望・貨幣

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