宮本常一の方法

最近、民俗学的なドキュメンタリー映画を何本か観たため、宮本常一を読んでみる気になった。水木しげるの漫画や大塚英志原作の北神伝綺等、民俗学の要素を盛り込んだ漫画は割と人気があるようで数多く出版されており、そのようなとっつきやすい媒体から民俗学に接し、民俗学の面白さというものは薄ぼんやりとわかっていたつもりだったけれど、どちらかといえばとっつきにくいジャンルだった。宮本常一の本も、今回はじめて読んだのだけれど、淡々としていながらも、丁寧な描写により視覚的なイメージをきちんと読み手が膨らませることの出来るような文体に、とても好感が持てた。学者としてというより、ひとりの旅人の記録として読むことの出来るような読みやすさがあった。これを読んだのは、電車での移動中だったのだけれど、いきなり窓の外に広がるいつもの風景の中にみえる人や、家々にかかる洗濯物を眺めながら、どこかそれが新鮮に感じられてしまったのは、本を読みながら旅人の視点のようなものを思い出させられたからだと思う。

宮本常一って良いな、と思い、ウェブ検索したら、「宮本常一データベース」というページがあった。彼の撮った写真を何年代のどこの地方かで検索できるのが面白く、しばらくそれで遊んだ。何を撮ろうとしたのかよくわからないような写真も多かったのだけれど、素人だと気にも留めないようなことにまで目が向けられており、その膨大な情報の蓄積があったからこそ、あれだけの文章が書けたのだろうな、と考えさせられた。
宮本常一データベースhttp://www.towatown.jp/database/

私の読んだのは、ちくま日本文学全集で、いくつかの著作の一部を抜粋したものが集められた本だったのだけれど、最後に収められていた『愛情は子供と共に』という本からの抜粋である「萩の花」は、純粋な研究の記録ではなく、研究のために家を留守にしがちであった彼が子を亡くしたときのことを綴った文章だった。旅人に家族というのは、あまり結びつかないけれど、宮本常一は、戻る場所を持ちつつ(家族と繋がりつつ)移動し、研究を続けた。それを読み、あらためて「宮本常一はやはり旅人ではなく学者だったのだな」と強く意識させられた。よそ者としての自分を意識しつつも、その世界に入ってしまい戻ることのできないくらいその土地、その習俗、その地の人々の心性などに感情移入してしまうということが旅人にはあり得ると思う。そのとき、冷静な観察というのは無理になるかもしれない。その世界に魅せられて、のめりこんでしまった人の文章というのも面白いけれど、宮本常一の文章が読みやすく感じられたのは、その冷静な視点が終始保たれていたからなのではないか、と思う。そこには、話をより面白くするために事実を誇張して書いたというようなフィクション感がまったくない。宮本常一の文章は美しく、彼に詩的センスがなかったとは決して思わない。彼の受けた印象が文中に書かれていないわけでもないけれど、そこに押し付けがましさはないし、感情的な世界に没入してしまうような危うさも感じられない。繊細で、控えめな人だったのだと思う。彼が、各地で、人々に温かく受け入れられたことは文章を読んでいてよくわかる。注意深く土地の人々に気を配りながら、決して上からの目線で接することもなく、話す相手が安心して心を開き話ることのできるような人物だったのだろう。神の存在を意識させられたりして、ともすれば研究対象であった世界に自分も引き摺り込まれがちになりそうな民俗学の研究という仕事の中で、宮本常一はそうならないよう常に意識していたのではないか、と思った。

北神伝綺 (上) (ニュータイプ100%コミックス)

北神伝綺 (上) (ニュータイプ100%コミックス)