『原理主義とは何か』読了メモ

西谷修鵜飼哲港千尋の三氏による、1995年から1996年にかけての鼎談がまとめられた本だ。1996年発行で、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件の頃、10年以上前の本なのだけれど、ここで語られている話はまったく古くはない。問題が、解決されないままに今に至っているからだ。ほとんど1ページごとに、三氏により次から次へと新しい観点が導入され、今まであまりニュースをきちんと見ず「原理主義」をとりまく問題をほったらかしにしてきた私には、正直消化しきれなかった部分も残った。もしかしたら、日本のニュースをみているだけではわからなかった出来事もたくさん引用されていたのかもしれないけれど、とにかく、出てくる事柄については、そんなことがあったのかと驚きをもって知らされるものが多く、例えば94年、イスラーム救国戦線とアルジェリア民族解放戦線の一部との間でおこなわれた国民和解のための話し合いにおいて、救国戦線側が交渉のために出した三つの条件のうちの一つが「小学校からの一切の音楽教育の廃止だった」なんていうことにも驚かされた。これは、若年層を、音楽と宗教が奪いあっているという状況を端的に示した事柄で、例えばこういう話題から毒ガスの話等に繋がっていき、第一回目は、港氏の次のような言葉で締めくくられている。

カネッティは「呼吸記憶」ということを話している(『断層』岩田行一訳、法政大学出版局)。ブロッホの文学において最も重要なのは呼吸記憶である、と。ブロッホの本の中に登場する人物は呼吸によって動いている人たちです。部屋に誰かが入った時に空気が変わるし、あるいは話す時にも変わります。つまり呼吸によって自らを形成し動いている。空気は最後の入会地であるとカネッティは言います、ところが、いままさにブロッホは窒息している。何によって窒息しているかというと、ガスによって窒息している―と。私達たち全員の共有する最後のものが、私たちに共通の毒を盛ろうとしている、と。
 そうすると、三〇年代、六〇年代、九〇年代がつながってくるような気がしますね。音楽も呼吸と同じものでしょう。歌うこと、あるいは聴くことは、呼吸することを前提にしている。呼吸すること、歌うことによって空間が時間の中に雪崩れ込み、自分の中の時間が空間の中にリズムという形で出てくる。その音楽の教育を廃止するということだから、これはまさしくガスによる大量虐殺と同じことです。(西谷修鵜飼哲港千尋原理主義とは何か』)

何よりインパクトが強かったのは、(本文でも鵜飼氏が「学術的な研究以上に多くのことを教えてくれる」と言っているのだけれど)本の各所に収められたイラン人の写真家アッバースによる写真だ。彼の写真はもっとみてみたいと思う。

原理主義とは何か

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