<現実>を見ることについて

『見たくない思想的現実を見る』とはなかなかに良いタイトルだと思う。

私たちにとって、現実と思想の往復運動を回復することが不可欠になっている。そのために、沖縄を皮切りにして老人病院や農山村あるいはアジアへと、自らの足を運ぼうと考えている。日々、「見たくない思想的現実」と格闘する人々と直に会って、彼らが何を考え、どのように振舞っているか、この目と耳で確かめたいのだ。そこから「日常」と「非日常」の摩擦を皮膚で感じとることのできる触覚を取り戻し、思考の枠組みや座標軸を組み換えてゆきたいと思う。金子勝大澤真幸『見たくない思想的現実を見る』「はじめに」より)

この本は、上記のような趣旨で、金子勝大澤真幸の二人が沖縄、高齢者医療、過疎問題、ナショナリズム、若者の就職難の現場を、「同じ場所に行き、同じ人々に会って意見を聞いて」取材したことを別々にレポートしたものだ。異なる分野で活躍する両者の視点の違いを比較しながら読むのが面白かったのもさることながら、「<現実>を見ることの必要性について」大澤真幸があとがきに書いていたことが印象深かったので、長くなるがここに書きとめておきたい。

「現場主義」への軽蔑は、この仕事を終えた現在でも変わらない。言い換えれば、本書の価値は、「現場主義」のそれとは異なったところにある。たしかに、私は、現場に行って、非常に多くのことを初めて知った。問題の多様性や深さを、問題の細部を初めて知った。それらに対して、いろいろなことが為され、ときに挫折し、ときに成功してきたことを、初めて知った。だが、このことを私の特権であるかのように、誇ろうとは思わない。私が現場で初めて知ったことは、現場に行かなくては原理的に獲得できない「知」ではないからだ。豊かな想像力は、それらを十分に思い描くことができたであろう。文書のような間接的な情報によっても、十分に認識できたことであろう。
それならば、何のために現場に行って、<現実>を直接に見たのか?それこそが―ほとんどそれのみが―、ある<可能性>を、未来に構想された<可能性>を肯定し断定する力を与えてくれるからなのだ。分かりやすく言えば、<現実>を見なければ、「そこまでは言い切れなかっただろう」ということが、<現実>を通過することで書き得た、ということである。金子勝大澤真幸『見たくない思想的現実を見る』大澤真幸による「あとがき」より)

私は、どちらかと言えば現場主義的な考えを持っており、それに従って行動しがちだけれど、<現場>に行くということに対する認識が少し間違っていたように思う。現場に行くということを、普遍的な洞察に到達するためには不可欠なものと思っていた。でも、それは、未来に構想された<可能性>を肯定し断定する力を与えるためのものだったのだ。今後は、私の現場主義的考えに由来する傲慢な発言や態度を少しは軽減できそうである。

見たくない思想的現実を見る―共同取材

見たくない思想的現実を見る―共同取材