Ex-Librisについて-武井氏の考え

Habent sua fata libelli.(書物は自己の運命を持つ−蔵書票の金言より)

自分の持っている本に蔵書印を押したり蔵書票を貼ったりしたいという気持ちにはなったことがないけれど古本を購入し、素敵な蔵書印や蔵書票がついているとちょっと嬉しくなる。線引や書き込みありの本も、その本をもう一度売りに出すとしたら価値は下がるけれど、そんなことを考えなければ、場合によって嬉しいものだ。その本の前の持ち主がどういう人であったのか、想像を膨らませることが出来るので。

愛書家として有名な庄司浅水『書物の楽園』を読んでいたら、武井武雄が蔵書票について考えていたことが紹介されており、それが面白かったのでここにも書きとめておきたい。

さて、私はこの蔵書票なるものには甚だ冷淡だ。結論を急いでいる気味だが、いやしくも刊本作品というべき本なら、たとえ一センチの余白と雖も、それは余白の為に布置し、掃き清められてある筈で、美術作品であってみれば、これに著者に無断で勝手にベタベタと、不似合いな紙切れを貼り付けられてはたまったものでない。大げさの言い方をすれば、著作権の中の人格権の侵害である。絵画作品の中に、一々その家の家蔵票を貼りこむのと全く同じ行為である。特にそれが多色刷で過飾の傾向をもったもの程雑音の度が高まってくる。こういう謂わば冒瀆行為に類する事が、一ぱしの愛書家の間にすら平気で行われている例がしばしばあって、この人が果して本を本気で愛重しているのか、とそのセンスを疑いたくなる事がある。私見を以てすれば、辞書とか、大系のものとか、比較的殺風景でドライの書容のものに、なるべく地味で簡素な蔵書票を貼付するのは、必ずしも悪いとは思わない。しかし、絵画性の強い本に対して、全く調和しない別な絵を、またわざわざ貼りつけるなどは沙汰の限りというべきである。本の方でも相当な迷惑を蒙るが、第一、場違いのお座敷に迷い込んで、しょんぼりと小さく座っている蔵書票さんにお気の毒でならない事になる。日本や中国では、蔵書票を貼る事よりも、蔵書印を捺す習慣の方が多かった。書容の邪魔をしないという意味では、私はむしろこの方に賛成する。
蔵書票が用途から解放されて、豆版画趣味の追及蒐集という事になると話はまた別である。ここでは、むしろ蔵書票作家はミニアチュール版画作家、蔵書票趣味は豆版画趣味というように、はっきりと割切って、タイトルを置きかえた方が、間違いが少なくなる。ただ、“エクス・リブロス”という世界共通の標識を掲げた豆版画なのである。(庄司浅水著『書物の楽園』より 武井武雄『本とその周辺』の引用)

庄司氏は、何もそこまで言わなくても、という立場であり、私も蔵書票を貼ることを別段悪いと思っていないけれど、武井氏が本ばかりではなく蔵書票にまで「さん」をつけて擬人化しているところが、お怒りの程も表していて、ちょっと笑ってしまった。この文章だけで、武井氏の独特なタッチによる困っている本さんと蔵書票さんの絵まで目に浮かんだ。(実際そんな絵を描いていたらますます面白いのだけれど)

蔵書票を貼る人も、貼らない主義の武井氏のような人も、本をものすごく愛しているのだろう。愛のかたちって実に様々だ。