安吾の戦後

西川長夫氏の、国民国家や戦後歴史学等に関する考えが様々な形式で収められた、『戦争の世紀を越えて―グローバル化時代の国家・歴史・民族』という本を読んだ。
坂口安吾研究会における報告がまとめられている「戦争と文学―文学者たちの十二月八日をめぐって」という章では、安吾に限らず太宰治伊藤整高村光太郎等の文章も引用しつつ戦争と文学者について様々な考察がなされており、私には特に興味深く感じられた。

近代の戦争、すなわち総力戦は国民国家の機能が最も強力に最大限に発揮される。したがって国民国家の本質が最も明瞭に表現される時期であるとすれば、それは同時に文学の制度としての意味が最も露わに示される時期ではないか。―そうした観点から、開戦の日である一九四一年十二月八日の文学と文学者の言動について、もういちど改めて考えてみたいと思います。(西川長夫『戦争の世紀を越えて―グローバル化時代の国家・歴史・民族』)

戦時中は発禁になっていたとされる太宰治の『十二月八日』と坂口安吾の『真珠』という作品をとりあげ、西川氏はこれらを抵抗文学に祭り上げられるようなものではないし、太宰も安吾もこの歴史的瞬間の感動を全国民と共有していたと思う、と言う。

国民国家の制度のなかで、国語を使い、メディアや出版資本とかかわり、読者という国民を相手に作品を書く文学者が、全国民的な興奮のなかで、それに抗して書くというのはきわめてむずかしい。むしろ作家たちはその本性として、国民的共同体と一体化しうる理想の瞬間を、心のどこかで待ち望んでいるものだと思います。(西川長夫『戦争の世紀を越えて―グローバル化時代の国家・歴史・民族』)

続けて、安吾の文章のなかに、ナショナリスト安吾ファシスト安吾すら見受けられることも指摘しながら、安吾が戦争を体験することによってどのように変容していったかについて氏の見解が述べられるのだけれど、「表現形態は多種複雑であるが、近代の文学者は基本的にはみなナショナリストであり、そのナショナリスティックな願望が満たされる機会を、つねに意識的無意識的に待ちかまえている」とする考えは、私にとってとりわけ新しいものだった。

安吾の戦後の戦争観である「戦争論」で安吾は、「国際間に於いては、単一国家が平和の基礎であるに比し、各個人に於いては、家の問題の解決が、最後の問題となるのだろう」と、世界政府と家制度の廃止を結び付けて考えているようだ。このことの是非について私も考えたことがあり、私はどちらかというと安吾のように考えがちだったのだけれど、安吾のいささか極端な文章を目にしたことを機に、再びそう考えるのは間違っているのではないか、と疑問を持つようになった。

私は思うに、最後の理想としては、子供は国家が育つべきものだ。それが、理想的な秩序の根底だと思っているのだ。
その秩序によって、多くの罪悪が失われ、多くの蒙昧が失われ、多くの不幸が失われ、多くの不合理が失われる。人情が失われる代わりに、博愛と、秩序の合理性が与えられる。本能の蒙昧に代わって、正しい理知が生活の主体となるだろう。
人間は個の歴史から解放され、人間そのものの歴史のみを背景とし、家の歴史を所有しなくなることだけで、すでに多くの正義を生まれながらに所有するに至るだろう。
戦争は終わった。永遠に。我々に残された道は、建設のみである。昔ながらのものに復旧することを正義としてはならないのだ。こりることを知らねばならぬ。(……)
私はくりかえして云う。戦争の果たした効能は偉大であった。そして、戦争が未来に於て果たすであろう効能も、偉大である。即ち、世界単一国家と、家の制度に代わる新秩序の発生。(ちくま文庫坂口安吾全集』15より)

目下のところ、世界単一国家と家制度をいかに切り離して考えられるかについて模索しなければ、と思う。仮に、世界単一国家を理想としたとしても、家族を否定するということに繋げてしまったらあまりに寂しいので。

戦争の世紀を越えて―グローバル化時代の国家・歴史・民族

戦争の世紀を越えて―グローバル化時代の国家・歴史・民族