まずは3年仕事を続けなければならないのか?

競争社会を支えている基本的な感情は恐怖だと思います。暗黙のうちに存在する恐怖です。一生懸命に働き続けなければ貧乏になるかもしれない、ホームレスになるかもしれないという恐怖。あるいは、病気になったら医者に行かねばならないが、でもその支払いができないかもしれないという恐怖です。だから考え方を切り換えたい、切り換えなければならないと思っても、とにかく仕事を続けなければいけないという個人的な選択に当然なるわけです。(ダグラス・ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』)

私が常日頃関心をもっている労働という問題を考えるとき、経済という問題を抜きに考えることは出来ないので、ダグラス・ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』をを読んでみた。「本当の豊かさとは何か」という問いかけが議論されて久しいけれど、なぜ、それが「常識」になっていないのか、あるいはその実現、切り換えがなぜできないのかについて、上記の引用も特に新しいものではないと思うけれど、念のため確認してから感想を書きたい。

経済発展を「イデオロギー」と呼ぶダグラス・ラミスは、経済発展のイデオロギー性が不透明で見えにくく、客観的な事実、あるいは客観的な必然性と思われていることを問題として指摘している
物質的な豊かさだけではなく、本当の意味での豊かさに基づいた社会を求める過程を、ダグラス・ラミスは、暫定的に「対抗発展」と呼び、その「対抗発展」を次のようなものとした。

「対抗発展」という言葉でまず言いたいことは、今までの「発展」の意味、つまり経済成長を否定することです。否定するというのは、これから発展すべきなのは経済ではないという意味です。それは逆に、人間社会のなかから
経済という要素を少しずつ減らす過程です。
すなわち一つには、対抗発展は「減らす発展」です。エネルギー消費を減らすこと、それぞれの個人が経済活動に使っている時間を減らすこと。値段のついたものを減らすこと。
そして「対抗発展」の二つ目の目標は。経済以外の価値、経済活動以外の人間の活動、市場以外のあらゆる楽しみ、行動、文化、そういうものを発展させるという意味です。経済用語に言い換えると、交換価値の高いものを減らして、使用価値の高いものを増やす過程、ということになります。(ダグラス・ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』)

禁欲主義としての「対抗発展」ではなく、本当の意味での快楽主義である「対抗発展」。消費による快楽主義ではなく、快楽、楽しさを感じる能力を発展させるものとしての「対抗発展」。もっと生産するための時間ではなく、管理されていない時間、自由時間、人が個人として本当にやりたいことをやる時間。これを少しずつ求めることも「対抗発展」の大きな目的とされ、私は、この考え方に強く賛同した。

仕事中毒になって一生懸命仕事をすれば、一種の楽しさを感じるようになる。消費中毒になると、お金を払うこと自体が楽しくなり、お金を得る活動が楽しくなる。お金の値段がついていなければ楽しくない、というのが経済人間で、そういう人間は経済システムの中でうまく機能するのだけれど、このようになってしまうと、もはや「人間」ではなく「人材」なのだ。

「対抗発展」とは、労働を否定し怠惰を推奨しているわけではない。お金をもらうということや、仕事の内容で尊敬されるということでもなく、本当の仕事の楽しさの発見も「対抗発展」の大きな目的である。自分に合う職場がみつからず職場を転々とする人は「転職ジプシー」などと揶揄され、今いる場所で喜びを見出すことこそ素晴らしいような言説が巷にはまかり通っている。更にひどいことに、「まずは3年働きなさい」などと根拠のない言葉を平気で発することが出来る人があまりに多いけれど、この現象は一体どういうことなのだろうか。

働く場所を選ぶのは就職のときだけではなく、そこで働いているあいだ絶え間なく続ける選択です。どんなことがあっても、とにかくその会社を辞めるのは考えられない、と思い込めば、心にそれだけゆとりがなくなるでしょう。嫌になったら当然辞めるという覚悟で働けば、自分の自由も会社に対する抵抗力も強くなる。しかしもちろん、自分の消費レベルを下げることを考えられないならば、仕事を辞めるのも考えられないことになります。そうなると、会社の言うことすべてを呑まなければならないことになる。(ダグラス・ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』)

表面からだけ企業をみて、入社を決めるということ自体、まずはとても恐ろしいことだ。入ってみなければわからないのが前提である。写真とプロフィールだけで結婚相手を決めて、実際に想像通りの結婚生活が出来るかという話に置きかえてみなければわかりにくいのだろうか。仮にたまたま選んだ会社が、運悪くも、自分の良心、考え方、生き方と合わないところだったとして、良心を殺しながら3年間というあまりに長い時間を毎日働くというのはとても辛いことで、これは過労死にもつながるだろうとダグラス・ラミスも書いている。まったくその通りだ。無責任に、「まずは3年働きなさい」などという人には本当に腹が立つ。確かに、会社を辞めることを繰り返すと、その人は会社に対する忠誠心を疑われ、新しい会社に採用されにくくなるかもしれない。最初の会社を半年で辞め、その後も転職を何回かした私は、転職を繰り返すものの受ける差別も充分に味わっている。「まずは3年働きなさい」という人は、安易な老婆心からその言葉を発しているのだろう。

「まずは3年働く」ことは得に見えるのはあまりにも自明のことで、会社を辞めようと考えている人は「まずは3年働きなさい」なんて言われる前に、とっくにそれが出来るかどうかは考え済みだと思う。また、辞めるからには引き受けなければならないことを想像すらできないような人間であるはずもないと思う。

問題は、会社を辞めたいと思っていることを自分の能力が足りないせいにしてしまいがちであることなのだ。短期間で仕事を辞めると、「問題がおきたら対処方法を考えずにすぐに投げ出す」「能力が身につかない」とか言われがちだけれど、会社を辞めようと思っている人は、そのような言葉を真に受けずに本当にそうなのか考えてみたら良いと思う。この会社で頑張っていったいどのような能力が身につくのか、それが自分に必要な能力なのか。仕事を辞める人を悪し様に言う世間の傾向は、仕事を辞められない人のルサンチマンに端を発しているのかもしれないと思ってしまうほどに、エスカレートしているように思える。

身近に、ダグラス・ラミス的な考えを持つ人をみつけることはむずかしく孤独な戦いになるかもしれないけれど、大きな書店に行けば、本の中に、応援者をたくさんみつけることも出来ると思う。仕事を辞めることを決意した場合、もしくは仕事を辞めようか悩んでいる場合は、様々な本を読み、不安を打ち消すだけのある程度脆くない考えをもち、将来計画をある程度立てた上で辞めたら何ら問題はないと思う。

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか

経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか