ゴシックハート

ゴシック建築、ゴシックロマンスなどを好きだという自覚がある。中世風の古城や修道院、廃墟、人形、怪物、分身等のキーワードにも心惹かれる。ゴスファッションの人がいたりすると何となく好感を持って眺めしまう。自分自身がゴスファッションに身を包んでみたい気がしないというわけでもないのだけれど、そこにいま一歩足を踏み出すことが出来なかったのは自分にゴシックハートが足りない所為なのではないかと思っていたので、高原英理著『ゴシックハート』という本を見つけたときは迷わず購入した。

面白かったのは、日本の漫画における元祖ゴシックとして楳図かずおが紹介されていたことだ。なるほど怪奇や恐怖、異形もゴシックのキーワードではあるけれど、楳図かずおとゴシックを結びつけるという発想はなかった。

私が、子供の頃読んで一番怖かった漫画というのが、『ゴシックハート』中でとりあげられていた楳図かずおの「赤んぼう少女」で、あまりに怖くて一緒に読んだ従姉妹と「赤んぼう少女」をネタに脅かしあっていたことや、「赤んぼう少女」であるタマミが実は哀れな弱者であるということにうっすら気づいていたことを思い出した。恐怖の対象としての異形のものではなく、弱者としての異形のものに向ける視線というものを子供の頃の私が持っていなかったというわけではないらしいが、昔はその哀れさや惨めさ自体が恐怖だったのかな、と思う。

楳図かずおの作品では、肉体的に醜いということがおよそ考えうる最悪の状況として描かれ、不幸の原因はすべて先天的・後天的な身体変異・容貌にある、という短絡的すぎる形式を敢えて取ることで、野蛮な力(つまりゴシックだ)を生み出す。
それはたとえば、どれほど飾ってみてももとがひどければ気持ち悪いだけ、という事実、およそ世の建前(「わたし思いますのよ、美人って、実は内面で決まるって」と教えを垂れる容貌自慢の女たちの言説の眠くなるような嘘)を強烈に嘲笑する場面がしばしば挿入されることで一層絶望感を強めている。『のろいの館』(赤ん坊少女)で最も印象的なのは、タマミが着飾り鏡の前で懸命に白粉を塗り、しかし、ちっとも可愛らしくも美しくもならないことに絶望して泣くシーンだ。
だが、ここで楳図はそのままで終えず、その後すぐタマミに過剰な笑いの発作を起こさせて着ている服をびりびりと破かせる。この行動性により、タマミは哀れな者、というだけの意味を脱し、クレイジーで攻撃的な存在としての新たな役割を獲得する。
このポジティヴな行動性を、角川文庫版の巻末対談で大槻ケンヂが高く評価しているが、私としてはこうした要素を重く見すぎてはならないと思う。それはいわば作者にとってのアリバイのようなものである。「邪悪」と意味付けられるべき醜い少女が、描写の深刻さのあまり、読み手に同情されてしまってはならないからだ。ふと冷静になれば、タマミが悪者である以前に、あまりにも過酷な状況にいる弱者であることに読み手は気づく筈だ。それを強くし引きさせてしまっては恐怖漫画本来の意味からはずれてしまう。高原英理著『ゴシックハート』)

ゴシック文学の中で悪者にされている者の中には、『フランケンシュタイン』を筆頭に、よく考えれば不当に差別されている弱者も多く登場する。虐げられる不具者。現実とはかけ離れた世界に一見見えるけれど、不合理、不条理な現実そのものだ。

現実社会という「誰かのための制度」を憎み、飽くまでも孤立したまま偏奇な個であろうとするゴシックは、そういうクズな世界での抵抗のひとつなのである。高原英理著『ゴシックハート』)

ゴシックは恐怖とか耽美とか言う前に、とても悲しい。ゴスファッションは痛々しくもあり喪服のイメージとも重なる。

ちょっと暗くなってしまったところで、マリリン・マンソンのPVをいくつか見てみた。見ながらグロテスクなものが美しく見えてしまう価値の反転を不思議に思った。

ゴシックハート

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