セルフポートレイトな気分

CINDY SHERMANの写真集を観ながら、セルフポートレイトを彼女のように本格的に撮るのはとても面白そうだと思った。人物写真は、被写体との関係性が大きく写真に反映されるから難しい。自分を撮るのだと気を遣わなくて良いから楽だ。
考えてみると、私は普段の自分の姿を人に頼まれても写されたり写したくないのだけれど、それとは対照的に、他のものになりきっているとき、普段と違う格好をしているとき(職場の制服を着ているとき、かつらを被っているとき、いつもと違うメイクをしているときなど)は自ら積極的にセルフポートレイトを撮っている。実は私はセルフポートレイトが好きなのではないかと疑うようになった。
CINDY SHERMAN同様、セルフポートレイトをテーマに活躍している森村泰昌『空想主義的芸術家宣言』には、現在日本においてセルフポートレイト感覚が表立った流行現象のひとつになってきているとの指摘がある。デュシャンが先鞭をつけた世界的な現象、すなわち「長らく美術が持ちつづけてきた『見る』ことの価値をいったんご破算にするために、美術家が『見る』ことを停止し、『見られる』側に立つことを選びとった」ということと、日本におけるセルフポートレイト感覚とを比較した箇所にはなるほどと思った。

日本の「セルフポートレイトな気分」には、「見る」側に向かって放つ「見返す」意志は希薄であると私は思う。ではなにがあるかというと、「見返す」ではなく、「見せる」ではないだろうか。
今、日本では、多くの人々が自分を誰かに見せたがっている。プリクラ。ビデオカメラの普及。カラオケ好き。街頭インタビューへの受け答えの上達。これらはすべて、ひかえめであることが美徳とされてきた日本文化の抑圧のタガがはずれて全開しはじめた、自分自身を「見せる」ことへの欲望なのである。
「見返す」とは、「見る」欲望の視線を迎撃するミサイルのようなものである。いっぽう「見せる」とは「見る」欲望を持つ相手に、「見られる」側である自分自身の魅力を「見せる」ことによって、相手の欲望をからめとる罠である。つまり「見せる」とは「魅せる」ことであり、もっとあからさまにいえば、「魅せる」ことで「モテル」ことがめざされている。「見返す」ことが、「見る」と「見られる」の間の対立関係だとすれば、「見せる」は愛情関係である。(森村泰昌『空想主義的芸術家宣言』)

なるほど。同じセルフポートレイトでも視線に違いがあるのか、と思った。今後、自分の行動やまわりを観察するときに、「セルフポートレイトな気分」というタームも取り入れていきたいと思う。
私の限定的なセルフポートレイト好きは、やはり「セルフポートレイトな気分」に端を発するのものなのだろうと思う。「セルフポートレイトな気分」を特に悪いものだとは思わないけれど、もし、今後セルフポートレイトを自分で撮ることがあるとしたら、「見返す」視線を意識してみたいと思う。それは、「見る」ことと「見られる」ことの固定的な関係を揺さぶる実験にもなるというからだ。

デュシャンは「覗く」。するとそこには「覗かれる」存在としての「オンナ」がいた。
デュシャンはさらに「覗く」。するとそこには「オンナ」を「覗く」デュシャン自身が見える。
デュシャンは「覗く」ひととしてスタートしたのだが、「覗き」行為のはてで、「覗く/見る」存在は、「覗かれる/見られる」存在でもあることを知る。これは「見る」ことが「観察」から「覗く」へと価値を下落させていく時代における快楽となり、また美学ともなる。と同時に、「見る」ことと「見られる」ことの固定的な関係を揺さぶる実験にもなった。(森村泰昌『空想主義的芸術家宣言』)


Cindy Sherman (Supercontemporanea)

Cindy Sherman (Supercontemporanea)

空想主義的芸術家宣言

空想主義的芸術家宣言