痴呆を生きるということ

老人福祉の世界に興味を持ち、ヘルパー2級の勉強をしはじめたのはもう10年ほど前になる。10年前、祖母に見られるようになったもの忘れの症状が、老人福祉の世界に興味を持ったひとつのきっかけだった。現在、10年前は祖母より元気に見えていた祖父は病院に入院中、祖母の痴呆は進みお嫁さんとのトラブルも起きるようになっている。そんな中、母に薦められて読んでみたのが小沢勲著『痴呆を生きるということ』だ。
老人介護にあたる人には必読の本だと思う。痴呆とういう脳の病を持っている人がどのような世界に生きているのか、ということは私たちがいくら想像しようとしても限界がある。私が受講したヘルパー2級の講座においては、介護者が利用者のある行動に対してどのように対処すればよいかということをひと通り学びはしたが、時間的制約もあってか、痴呆の人がどのような理由でどのような状態にあるのかということはそれほど考察する機会がないままになっていた。もちろん、介護実習においては痴呆にある人の気持ちを考えて接するようにはしていたけれど、やはり自分の思い込みで行動していた部分が多かったのだろうと思う。知らず知らずにもしくは良かれと思って言ったことが相手のプライドを傷つけてしまっていたかもしれない。事実、私の中には悪い痴呆と良い痴呆という漠然としたイメージがあり、痴呆になる前の性格によって攻撃的な行動が多くなったり妄想が大きくなるものだから悪い痴呆の人には介護者がどう接したところであまり変えようがない、仕方がない、と根拠もないまま思っていたけれど、この本を読み、そんな単純なことではないということが理解できた。また、私自身祖母の記憶には残らないのだろうなと思ってはいても、自分自身のために今まで通り一緒に歌をうたったり、ゲームをしたり、絵を描きあったりと祖母との時を大切にしてきたのだが、そのことはたとえ祖母の記憶にエピソードとしては残らなくても、祖母も一緒に笑って楽しそうにしてくれていたということ、つまりそのエピソードにまつわる感情は蓄積されるらしいことがわかり嬉しくなったりもした。逆を言うと、「叱責され続けると、そのこと自体は忘れているようでも、自分がどのような立場にあるのか、どのように周囲に扱われているのか、という漠然とした感覚は確実に彼らのものになる(本文より)」ということである。
『痴呆を生きるということ』は、視点を介護者側の理論ではなく痴呆を生きている人の側に自然に変えて読めるような構造になった本だ。第2章では耕治人という知名度のそれほど高くない小説家の病妻三部作を多く引用しながら書かれている。痴呆を病む妻を静かで深い愛情とともに冷静な観察力をもって描写し、かつ介護する自分自身をも客観的に見つめる知性を持って綴った小説のようで、引用されている部分を読んでいるだけでこのような作品が埋もれているというのは勿体ないなと思った。
私は現在、出産のために総合病院の産婦人科に通っているけれど、そこで今までは見ることのなかった様々な老人やその家族、看護者、介護者の姿を目にする機会が多くなった。もちろん、祖父が入院している病院でも多く目にする。それまでの病院や家族関係とはあまり縁のなかった生活から一変して、老人、子供、ジェンダーについてなど考える機会が多くなった。一人暮らしのきままな生活から家族が増えるにあたって、人とのうまい付き合い方もより考えるようになったし、出産をきっかけにしばらく連絡を取っていなかった人とのつながりもまた出来るようになったりと大きく環境が変化している。『痴呆を生きるということ』は痴呆老人と接するときにのみ役立つような本では決してなかった。本を読みながら痴呆を患ってはいない人にも当てはめて考えられるような箇所がたくさんあり、広く、人間と接するということについて参考になるような本であったと思う。

痴呆を生きるということ (岩波新書)

痴呆を生きるということ (岩波新書)