明治40年前後の理科教育

牧野富太郎について、昔の偉大な植物学者であるということ以外に特別な知識もなかったが、春、草花が芽吹く季節はやっぱり気分が高揚するなぁ、と植物についての興味が増したこともあり、俵浩三著『牧野植物図鑑の謎』を読んでみた。
この本は、著者がたまたま牧野富太郎の『日本植物図鑑』村越三千男の『大植物図鑑』を手にし、奥付を見比べたことによる発見から生まれた本である。牧野の初版印刷が大正14年9月21日、発行が9月24日だったのに対し、村越の初版印刷は大正14年9月20日、発行が9月25日であった。わずかに一日違いの印刷と発行の背景にはきっと何かあったはずだ、と。このような冒頭部分を読み、私はわくわくした。ある有名人の影に実在した無名のライバル、というテーマは物語として文句なしに面白い。エジソンニコラ・テスラの関係を思いだした。
第一章には牧野富太郎の人間像が描かれる。植物好きで利発な少年が、いかにして植物学の権威になっていったのか、エリート中のエリート東大教授と在野から実力のみで勝負する非エリートとしての牧野の反骨精神のぶつかりあい、型にはまらない講義の様子、道化者としてふるまう牧野など、個性を感じさせるエピソードに、まず、牧野に対する親しみがぐんと増した。
第二章ではいよいよ本格的に牧野と村越との関係の謎が解かれていく。謎解きの本なので、ここでは多く触れないことにするが、面白かったのは、当時の理科教育についての記述だ。
牧野や村越の活躍した明治40年前後には多くの一般向け植物図鑑類をはじめとする博物学の本が集中して出版されたという。日本が近代国家を形成するにあたって明治33年には「小学校令」が大改正された。その中で、理科教育にあたっては「身近な自然を観察すること」が重要とされていたらしい。明治37年には、修身、日本歴史、地理、国語等の国定教科書が導入されたが、なんと理科は国定教科書を作らなかったばかりか使用禁止とされていたという。その事情については小学校の理科教育について高橋章臣が語ったことがわかりやすい。

我が目をもって自然語の読本を読めということは、つまり手近い所にあるものをとってこれを子供に読ましめよということ、即ち観察せしめよということである。それにはどうしても郷土的なものになる、即ち地方的なものになる。その教材は地方的なものであって、何処の土地でも当てはまるような理科の教材はないことになる。これが理科を授けるに当たって、一般的教科書を使うことの出来ぬという第一の理由である。日本全国に通ずるような理科教育書を作ることが出来ない。これを理想的に申せば、一つの小学校ごとに異なった材料を選択しなければならぬと思う。こういうことであります。(『最新理科教授法』1907)

こんな背景があり、現場の理科教師は困惑したようだが、そのために手引きとなるような本がたくさん発行されるようになったのだ。国家統制が強められていった時代、一方では修身の教科書などが作られたのに、このような理科教育の方針があったとは驚きだ。実際、この教育方針は子供たちに野外観察の楽しみを与える効果も発揮したようだ。
しかし、わずかに7年後の明治44年には、理科も国定教科書が作成されることとなり、全国画一化の道をたどることとなる。内容は植物偏重から、物理、化学、動物、植物、生理衛生、地質鉱物がバランスよく配分され、要点だけが羅列されるものとなった。そして後の大正時代には、明治40年前後盛んに出版された自然関係の読み物の出版も停滞してしまったということだ。
中学校、高校の教育はともかく、小学校の理科に関しては、この明治40年のような教育方針がとても魅力的に思われる。理科教師の質は重要になってくるが、自分自身、そんな教育を受けることができたら良かったなぁ、と思う。身近に自然を発見する機会に恵まれない地域も現在ではたくさんあるのだろうからやはり不公平になってしまうのだろうか。

牧野植物図鑑の謎 (平凡社新書 (017))

牧野植物図鑑の謎 (平凡社新書 (017))