casuistry 決疑論

土屋恵一郎のポストモダンの政治と宗教』を読んだ。そこで、決疑論という言葉を知った。

これは、土屋さんの言葉を借りると、「心のうちで違うことを考えていて、本当は違うのだけれど周囲の状況で仕方がなく、なにかをしたりいったりしても、後でその行為と言葉に責任をとる必要はない」というようなことだと、まずは理解しておけばよいようだ。
辞書には、「宗教上・倫理上の一般原則に従った義務・行為の間に衝突が起こるとき、律法にてらして善悪を判定しようとする方法。また、その学問。特に中世以降、カトリック教会で重視された」(大辞林三省堂)とある。

ことばの成り立ちから考えると、case(場合、例)から作られており、様々なケースに対応して信仰上の規範が守られていたかどうかを判断する「場合と条件の学問」であったようである。

17世紀前半、この決疑論がイエズス会士の間で盛んだったというが、パスカルは、『プロヴァンシャル』(1656年)において、この決疑論に、「それは虚言と偽善によって、信仰を空洞化することに他ならない」と反論し、それ以降この言葉は使用されなくなったようだ。

しかし、グスタフ・ルネ・ホッケは、『文学におけるマニエリスムのなかで、この決疑論は、「千の差異を持つ現実のなかで信仰と折り合いをつけながら生きていく人間の生き方を示すものである」と肯定的な見方をしている。(土屋さんも、特に、法律家にとってはこの考え方は実によくわかるものだといっている)

文章の中では、様々な説明がなされていたが、私は、簡単にいうなら、情状酌量の余地をもたせる考え方だとこれを理解した。

「多くの価値、思想、文化が存在して混合している現代のうちで、それぞれの価値、思想、文化が自分の信条を貫徹することができないのは当然である、そのとき、カズイスティックな生き方は、現代の生の基盤となっていくにちがいない」 (『ポストモダンの政治と宗教』土屋恵一郎)

ということばには、深く頷かされる。casuistryには、「決疑」「決疑論」のほかに、「こじつけ」「詭弁」「ごまかし」という意味がある。どちらかというと後者の意味で、何でも自分に都合よく考えるのではなく、頑なに自分の信条を貫く前に、複雑な現実について熟慮して、ときに、例外を自分の中にもうけることも必要だと思った。

ポストモダンの政治と宗教 (叢書 現代の宗教 12)

ポストモダンの政治と宗教 (叢書 現代の宗教 12)