死体本

タイトルに死体という言葉がはいった本を二冊続けて読んだ。布施英利著『禁じられた死体の世界』と原克著『死体の解釈学』

布施さんは、美学への関心から解剖学の世界にはいったちょっと特異な人だ。 「死体は怖くない」「現代という社会は、死体を真正面から見つめないから、死体のリアルが失われ、死体があたかも抽象的な存在にのようになってしまっている」「勝手な空想を一人歩きさせずに死体を自然として受け入れていこう」という著者の独自の考えが展開されているこの本には、私たちが普段目にする機会のない生々しい死体解剖写真が含まれており、写真のページをめくるたびに、ギョッとしていた。でも、布施さんの文章の効果か、読み終えてからもう一度それらの写真をみてもそんなに怖いと思わなかったのは自分でも不思議だ。

医学部の解剖実習がどんなものであるのかについても詳しく書かれており、医学部で学んだことのない私にはとても興味深い内容だった。また、死体をみるにはどこへ行ったらよいのかのガイドまでついていた。(パレルモカタコンベやパリの地下墓地などが薦められている。アメリカには、死体の標本を展示した博物館が多いらしい。私は、この本を読み終えてもまだ、ちょっと行きたい気分にはなれないけれど・・・)

エンバーミングを施す技術者は外国人であることが多いということも知らなかった。日本には、エンバーマーを養成する機関がなく、アメリカで資格をとったエンバーマーが日本まで来て働いているらしい。

例えば死体のスライスが博物館で展示されていたり、エンバーミング技術が発達したり・・・日本と欧米の違いを強く意識させられた。

もうひとつの本『死体の解釈学』は、都市空間を舞台に「死体の埋葬」についての分析が様々な角度から試みられた本だ。「ベルリン市内に埋葬禁止令が出たこと」「『若きウェルテルの悩み』によって一種の自殺ブームが起こったこと」「印刷技術の発達により仮死をめぐる言説の転換が起こったこと」など本当にいろんなことからいろんなことへと話が広がる。

19世紀後半から世紀末にかけて、そうした情報のアマルガム状態を爆発的に再生産しつづけたのが、情報の大量消費というメディア環境であった。ひとびとは、そこで、情報を時に娯楽として、時に深刻な不安として<消費>するように、導かれていったのである。こうした、マス大衆に照準を合わせたメディア環境を視野に入れなくては、文化的無意識としてのイメージ転換の仕組みは、たんなる直線的な政権交代劇としか見えなくなってしまうおそれがある。(原克『死体の解釈学』)

頁数が少なく、余白部分も多いので短時間で読めるような本なのに、内容の充実度がすごい。

禁じられた死体の世界―東京大学・解剖学教室でぼくが出会ったもの

禁じられた死体の世界―東京大学・解剖学教室でぼくが出会ったもの