発禁書

フェリクス・ガタリが編集代表と発行人を努めた雑誌『ルシェルシュ12号−30億の倒錯者−同性愛大百科』は、1973年4月、フランスで発禁処分となった。この号には、ミシェル・フーコージル・ドゥルーズジャン・ジュネジャン=ポール・サルトルといった有名人が名を連ねていたこともあり、事件はメディアに大きく取り上げられた。事件後、雑誌『ルシェルシュ12号−30億の倒錯者−同性愛大百科』は隠れたマーケットで異常な高値を呼んだらしい。市田良彦(編訳)『30億の倒錯者−ルシェルシュ十二号より』では、その「幻」の雑誌の巻末にあった掲載記事中もっとも長いエッセイ「尻に憑かれし者たち」と、この事件に関する裁判資料を読むことが出来る。

1950年、D・H・ロレンスのチャタレイ夫人の恋人伊藤整・訳)が発禁処分となった事件や、1959年マルキ・ド・サド悪徳の栄え澁澤龍彦が翻訳出版したことを巡って検察側が引き起こした「サド裁判」等日本でも似たような事件は数々あり、それらは表現の自由か猥褻か」という論点に終始されてしまったが、そこで問題とされた「猥褻さ」は、時代を経た今読んでみると、どうしてそこまで騒いだのかわからないほど何でもないようなものばかりだ。エッセイ「尻に憑かれし者たち」も、猥褻さなんて全くと言ってよいほど感じられない、いたって真面目なエッセイだった。ガタリも「我々はポルノグラフィ的な挑発の意図などまったくもっていなかった」と言うように、その「猥褻さ」を期待してこの本を読む人がいたとしたら、残念ながら失望を与えられるだろう。

社会体がこの僕を告発するのは、単に、社会体が恐怖にかられて拒絶する欲望だけのせいではない。僕がその欲望にパラノイア的になっているとも告発するのである。とはいえ、告発する者と迫害される者では、いったいどちらの迫害欲望が強いだろうか。同性愛の迫害は、同性愛的欲望に由来する。情動的なものであれ科学的なものであれ、同性愛に対するあらゆる態度は同性愛的な態度である、抑圧がある欲望を追求するとき、それは追及するという動詞のあらゆる意味において行われるのだ。つきまとい、傷つけようとし、後ろを走り、曳かれ、狙いを定めるわけである。(『30億の倒錯者−ルシェルシュ十二号より』)

このエッセイの趣旨は、「健全な性など存在しない」「異性愛者は同性愛者である」ということだ。この雑誌を発行することは、同性愛者が抑圧されているという状況に対する抗議であり、「人々は自分に係わる問題に自ら直接発言していいのだ」と、存在のあり方に対する視座を修正する試みであったのだろう。「我々は沈黙せる多数派が毎日やっていることを言っているにすぎないのだ」と書かれると本当にその通りだと思う。私が年月を経た今読んで、おかしなことが書かれてあると思わなかったのも、だからこそだと思う。

1973年は、私の生まれる前ではあるけれど、そんなに昔ではない気がする。75年フランスでポルノが全面解禁になり、かつて、日本人は愛のコリーダ(1976年)のノーカット版をフランスにわざわざ観に行ったというけれど、その3年くらい前にそんなことで騒いでいたのか、と思った。昨日、フランスで移民管理法案が可決されたようだけれども、わたしのほうがもっと猥褻なことに思われる

教条的な異性愛は、家族計画であれ性教育であれ、なすべきこととなしたほうがいいことを指導する。欲望は、その多数性を単純かつ哀れな性へと還元する「援助」によって破壊され続けているのである。(『30億の倒錯者−ルシェルシュ十二号より』)

私は、告発者でもあり、抑圧されるものでもある。自分の中の告発者に抑圧されているもうひとりの自分を無視しないようにしたい。
表現の自由、思想・良心の自由を謳いながらそれを侵害するような事件は、歴史から学ぶこともなく繰り返し起こっている。『30億の倒錯者−ルシェルシュ十二号より』も、今は簡単に手に入るけれど、いつ入手不可能になるかわからない。