パワナ*1

アメリカの歴史を語るうえで、捕鯨の歴史を抜きにすることは出来ないということは、巽孝之『恐竜のアメリカ』『「白鯨」―アメリカン・スタディーズ』を読んで知った。

捕鯨業は、19世紀半ば、石油の開発によって鯨油の需要が落ち込むまでの一時期、アメリカ最大の産業とみなされることもあったほどに繁栄していた。18世紀から19世紀初頭は、アメリカの捕鯨船団が太平洋という新しい漁場へ進出していった時期で、当時、日本近海もアメリ捕鯨産業にとって重要な漁場であったらしい。灯油として使われていた鯨油の需要は相当なもので、鯨捕りの仕事は危険を伴うだけに相当な収入の得られる仕事だったようである。

ハーマン・メルヴィル『代書人バートルビーは、私が昨年最も衝撃を受けた本であったが、そのこともあり、ようやく同じメルヴィル『白鯨』を読んでみる気になり、映画も観た。ただ鯨を追うというだけのような話が、こんなに面白いなんて思ってもいなかった。海洋文学と呼ばれるような話には今まで正直あまり興味を持てずにいたけれど、例えばコンラッドジャン・レーなど船乗りだった人の小説も読んでみたいと思うようになった。

ル・クレジオの短篇『パワナ』は2回読んだ。最初は『白鯨』のイメージがあまりに強烈だったため、どうしてもそのイメージが喚起されてしまい、純粋にこの物語を読んだという気がしなかったからだ。実際ナンタケットという土地が『白鯨』にも『パワナ』にも出てきたり、同じ捕鯨の話だから当然といえば当然だけれども二つの作品には似たようなキーワードが数多く盛り込まれている。

私は、鯨を実際に見たことがないし、捕鯨船がどんなものであったのか、文章だけでイメージするのにも限界があるので、映画『白鯨』を観たことは、イメージを膨らませるのに大変参考になった。でも、それ以降、捕鯨船や、鯨というとどうしても映画のシーンが頭に呼び起こされてしまい、それはもちろん『白鯨』という物語と共に呼び起こされるので、今回1回目に『パワナ』を読んだときは、『白鯨』の映画を観ながら並行して『パワナ』を読んだようでなんとも変な気分になった。だから2回目は『白鯨』と切り離すことを意識して読んだ。

2回読んだ後、やはり『白鯨』とこの小説を切り離して考えることは無理だということがわかった。それは、ル・クレジオの小説が、あの大作ハーマン・メルヴィル『白鯨』に呑み込まれてしまっているということでは決してない。『白鯨』を読むことで『パワナ』がより深く読めるし、『パワナ』を読むことで『白鯨』もより深く読めると思ったのだ。

『白鯨』のエイハブ船長が鯨への復讐心に囚われ続けたのとは対照的に、『パワナ』のスカモン船長は、楽園の破壊者とならざるをえなかったことへの悔恨の念に追われ続ける。

短艇は水を分けて進み、そしてインディアンの男の捕鯨砲が銛を発射すると、それは鯨たちの脇腹にめりこんで、さらに血を噴きあげさせた。私たちには思いやりがなくなっていた、思うに、私たちは世界の美しさについてももうなにも分からなくなっていた。(ル・クレジオ『パワナ』)

自分が殺したものをどうして愛することができるのか?それが短艇のなかで少年の視線が私に投げかけていた質問であり、私がいまなお耳にしているのは、まさにその質問なのである。だからして、短艇の舳が潟湖の水を分けて進んでゆくそのとき、私たちは一方でまことに耐えがたいことに私たちの宿命のほうへも進んでいたのだった、私たちが鯨たちの屍体を母船のほうへ引っぱっていったとき、少年のうかべていた涙のことを私はいま考えているのだが、それはあの少年こそ私たちが失った秘境のことを本当に知っているただひとりの人間だったからだ。(ル・クレジオ『パワナ』)

一攫千金を狙うという目的でだけではなく、楽園、未知の世界への憧れを持って捕鯨船に乗り込んだ者もいた。しかし、捕鯨船に乗り込んだ時点で、彼らはその楽園を破壊することを余儀なくされた。そして、後戻りは許されなくなる。

いま、私たちは白鯨を殺した後の世界に生きている。

課せられた役割を果たすために、実際にみえているものや本当はみたいものをみないようにする、ということは私たちの至上の命題になってきたのではないだろうか。社会人として、あらゆるものをみようとしてもなお自分に課せられているかにみえる役割を果たすことが可能だという人は幸運といえるだろう。

スカモン船長とは、実在した捕鯨家、海洋生物学者チャールズ・メルヴィル・スカモンのことで、克鯨の楽園の発見者として歴史にその名をとどめている。訳者である菅野昭正の解説によると彼は、残酷な捕鯨者として断罪される場合も多いらしい。エイハブ船長のことは結局最後までよくわからないままだったけれど(感情移入できないという意味では)、この小説でル・クレジオが再生したスカモン船長は、私にとって身近に感じられる。。「自分が殺したものをどうして愛することができるのか?」という問題が、私にとって身近なものであるということだと思う。

パワナ くじらの失楽園

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