【マナーの勉強】2.冠婚葬祭について

私にとって冠婚葬祭とは長年出来れば避けて通りたいイベントだった。マナーも知らず失礼を大分してきており、多少そのことを心苦しく思ってきたのだけれど、厄年を節目に引き続き斎藤美奈子著『冠婚葬祭のひみつ』を読みながら考えてみたい。

つまり冠婚葬祭とは「生物としてのヒト」を文化的な存在にするための発明品だったのではないか。冠婚葬祭という儀礼の衣を剥ぐと、その下からあらわれるのは生々しい身体上の諸現象なのだ。結婚とは一皮むけば性と生殖の公認にほかならず、葬送は肉体の死。元服を迎える15歳前後は第二次性長期である。すなわち冠は「第二次成長の社会化」、婚は「性と生殖の社会化」、葬は「死の社会化」、そして祭は「肉体を失った魂の社会化」。儀礼は生理を文化に昇格させる装置だったのではないか。斎藤美奈子著『冠婚葬祭のひみつ』)

ということは、知的なヒト、文化的な人ほど冠婚葬祭を重視しなくて済むのかもしれない?

現代の冠婚葬祭は、要するにビジネスだ。お金に余裕がなければ人並みの冠婚葬祭をすることが出来ない。例えば、喪服、パーティーの服ひとつとっても失礼のないようにと思うと結構なお金がかかるし、不祝儀、祝儀のお金を包み、会場へ遠方から足を運ぶというだけで、余程生活に余裕がない限り経済的な負担は大きい。慶事や弔事の式に参加すること・しないことは、必ずしもその人を想う気持ちに比例しない。儀礼が課せられることによって純粋な気持ちがかえって曇ってしまう場合もあるのではないかと思う。

例えば、葬について、1868年の神仏分離令によって、寺が生き残りをかけ、ますます葬式と法要に精を出すようになったという。葬式に手を貸すビジネスは江戸時代からあり、井原西鶴『日本永代蔵』に出てくるのが最初の例といわれる。その後、明治の都市では葬式がイベントと化し、飾り物として白衣の看護婦が人気だったとか。大正期には祭壇と霊柩車が登場する、など、冠婚葬祭ビジネスは時代の変化と共に柔軟に変化を遂げ、また、新しい企画・提案を人々にしてきた。巨大化していく冠婚葬祭ビジネスを支える人々が多くいるということの背景には何があるのだろうか。より深く考えたいところだ。

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

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