【マナーの勉強】7.会社行事−世に立つ税の一つ

会社行事は、新入社員にとって通過儀礼的意味を持ってる。会社行事を通して、社員共通の目的意識を明確にし、社内の一体感と活力を高めていこうという会社は特に大手に多い。
会社行事がいかに強制のものではなかったとしても、会社行事にまったく参加しないというスタンスを取り続けることは難しいものである。会社行事に出席することをビジネスマナー(企業で生き延びるために覚えなければならないこと)のひとつととらえ、時季を逸してはいるが、会社行事の中でも最大のイベントである忘年会についての本を読んだ。

日米開戦前夜、大政翼賛会が、「非常時国民が超非常時のお正月を迎えるの指針」を出し、「一切差控」えるものとして、「忘年会・新年会・歳暮・年始の贈答・年賀状・廻礼」を挙げたというが、戦時体制下の度重なる自粛通達にもかかわらずなくならなかったというほどに日本人は忘年会が好きらしい。

第一次大戦後、終身雇用制度の導入により、企業は「共同体」的な色彩を色濃くした。社内の半公的な行事として、花見や旅行や運動会などが戦前以上に盛んに行われるようになったということだ。共同体としての企業にとっては、そこへの快適な帰属意識がなによりも重要なので、企業側からも社員側からも、社内年中行事は多い利用すべきものとなる。

明治二十年、坪内逍遥は「忘年会」という小説を読売新聞に連載している。忘年会の歴史は江戸時代まで遡ることが出来るが、明治維新以降、日本の伝統的な年中行事が「旧習」として次々捨てられ、形骸化していくなかで、正月や忘年会などの「酒宴」はいっそう盛んになったようだ。小説の中で、主人公は、慣れない酒に気分を悪くし、帰りたがるのだが、仲間に止められる、など現代とそっくりの忘年会の様子が描かれる。

明治時代の忘年会をする主体は、官僚・会社員・学生など。当時、忘年会は時代の先端を行くハイカラな行事だった。会場はもっぱら料亭、芸者さんが宴に華をそえる。今に至る伝統の「隠し芸」は芸者を前にした素人の手遊びだろうということ。素面でつまらないものを見せられる酒が飲めない人、芸事が出来ないものにまで芸を強いられる「余興ファシズム」はここからはじまる。

さて、日本人は宴会の西洋化を目指すのであるが、それはなかなかに難しいことだった。お雇い外国人であったイギリス人、チェンバレンは、日本風の宴会について、傍若無人で上品さに欠けると言っている、そして日本人が何とか頑張ってヨーロッパ風にした宴会については、共通の話題がなく、言葉の問題もあり、「憂鬱」で「退屈」だと嘆く。

チェンバレンが日本のパーティの「退屈」を嘆く背景として、玄人の芸者相手に宴会をし、素人女性が同じことをするとはしたないとする風潮の下、素人女性が社交界で活躍する技術を獲得するチャンスを持つことができず、結果として男性も芸者相手がばかりで、普通の女性との接触が限られてしまったため社交下手になってしまったということがある。

明治33年、形成期の近代宴会を身をもって体験した世代に属する幸田露伴は「宴会」というエッセイを書き、近代宴会を批判している。

「会費を徴集する類の宴会」は源平時代ならば、「軍勢狩り集めの催促状」だという。ひとたびこれたの呼び出しをかけられると、「富みて豊なる人は時間の都合、手車も持たぬほどのものは懐中あいの都合」などをいろいろ考えて、「渋々参上」するのが多いのだと露伴はいう。しかも、「宴会の常」として、土日に開催が多く、そのため「山の神」は期限が悪くなり、亭主は弁解にこれ努めなければならない。開き直り気味に、「なに己だって出たいことは無いが、朋友の義理だから出無い訳には行かない、交際に外れては拙いからなあ」というしかない。中には、「服装持物をひけらかして好いことネーの一ト言を女共から云われ度がる若紳士、隠し芸を自慢の好い年仕った馬鹿親父」などは喜んで出席するが、たいていのヒトは「これも世に立つ税の一つ」と諦めているのだと。園田英弘著『忘年会』)

「これも世に立つ税の一つ」と思い宴会に出席していた明治の人のことを考えると、私も気が向いたら、「これも世に立つ税の一つ」と言って、会社行事に参加しても一興だと思える。
あと、忘年会は、素人女性がお酒を飲むチャンスを与えた、という意味において酒好きの女性の私としても拾うべき要素はある。

忘年会 (文春新書)

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