ハーシーチョコレートと大恐慌

2月、バレンタインデーのある月だ。寒さが身に凍みる時節だけれど、冬は製造・管理・味、どの面から言ってもチョコレートに一番ふさわしい季節だ。というわけで、ティータイム・ブックス編集部編『チョコレートの本』を読んでみた。チョコレートの歴史から科学、文学作品との関わりやチョコレートレシピ、チョコレートのデザイン等、バランス良くまとめられた本である。
新鮮だったのはハーシーの創業者、ミルトン・ハーシーのエピソードだった。彼は、アメリカン・ドリームを体現する立志伝中の人物として多くの人に愛されているようだが、彼のエピソードは日本でそれほど有名ではない印象がある。ここで紹介しきれないほどの興味深いエピソードがありそうなので、そこに詳しいM&F・モーガン『チョコレート』も機会があれば読んでみたいのだけれど、ハーシーが1903年、生まれ故郷ペンシルヴァニアに作ったという町の話は特に書きとめておきたい。ハーシーは自分の工場で働く人が住み良いようにと理想郷を作ることを実現したのだ。

町に建てられる家は、通常の工場町で見られるような無味乾燥な同じ形の家ではなく、一軒一軒が違うデザインの、個性のあるものでなければならなかった。そして、教会、学校、郵便局、消防署、ホテル、銀行、商店ができる。木々の並ぶ道はチョコレート通り、ココア通りのほか、カカオを生産する世界中の地名にちなんでジャヴァ、カラカス、アルパ、グレナダ、セイロン、パラなどと名付けられる。ハーシーはまた、町には決して取り入れないものについても心をくばった。「居酒屋、豚小屋、にかわ工場、石鹸工場、ロウソク工場、ランプのすすで汚れた工場、それに鍛冶屋」などは住宅街にあってはならない、町のすぐ外側には遊園地、動物園、ゴルフ・コース、フットボール場、ダンスホール、屋外ヴォードヴィル劇場などがつくられた。そして最後の仕上げが、すべての中心にある工場から立ちのぼるチョコレートの(ロアルド・ダールの言葉を使えば)ゴージャスな香り。町の名前がハーシーと変わったのも、ちょうど子どもが父親と同じ名をつけられるように、当然のことと受け止められた。ティータイム・ブックス編集部編『チョコレートの本』)

とまさに夢のような話である。子供がなかったハーシー夫妻は、貧しい子供たちのための施設と学校もつくり、彼らの生計の手段となる農業や商業を学ばせた。驚くべきことに、大恐慌のときには、建築費が安くなったのを利用し、全員の雇用を確保するために無数の施設の建築に乗り出し、「恐慌のために職を失ったものはハーシーには一人もいない」「給料カットもまったくなかった」と言えるほど完璧に恐慌を乗り切ったのである。当時ハーシーの工場で働いていた人の生活の記録など気になるところである。また、現在のどんな大企業にも真似できないような話だと思う。
ハーシーチョコが無性に食べたくなったので、今日は出勤前に輸入食品店でハーシーのチョコを買っていくことにしよう。ちなみに、戦後進駐軍アメリカ兵が、日本人群衆の中にばら撒いたドロップ、チューインガムなどの菓子類だが、チョコレートはハーシー製が多かったようだ。当時と同じ味ではないかもしれないけれど、そんなエピソードを思いながら味わうのも良いかもしれない。

チョコレートの本 (ティータイム・ブックス)

チョコレートの本 (ティータイム・ブックス)