子どもと教育とベンヤミン

ヴァルター・ベンヤミン著、丘澤静也訳『教育としての遊び』は、特にこれから子育てを経験するにあたって手元に置き何度でも読み直したい本だ。私がかつてその文章と出会うことが出来たことをこの上なく幸福なことと思い、もし若い人に読むことをすすめるならこれ、という『経験』が収められている本でもある。

私は教育にはあまり興味がなく、そんなに子供が好きではなかった。でも、子供を育てなければならなくなった今、ベンヤミンが批評家として教育に関心を持ち、子供好きで、教育や子供に関する文章を多く残してくれていることをとてもありがたく思っている。もちろんこの本の中で一番好きなのはベンヤミンが学生時代に書いたという『経験』という文章だけれど、約4年前にもこのブログにコメントを書いたので、ここでは訳者あとがきにある文章を引用するにとどめておこうと思う。

≪経験≫は、ベンヤミンが「はじめて満足のゆく文章」と呼んだものです。そこでは、「人生とはこんなものさ」と経験を鼻にかける大人を批判して、まったく別な種類の経験があること―それは真・善・美のユートピアと呼んでいいでしょう―を溌溂とうたいあげています。ヴァルター・ベンヤミン著、丘澤静也訳『教育としての遊び』

私は最近保育士のテキストなど読んで子供についての勉強をしているのだが、だからこそ聞き覚えのあった教育者ペスタロッチに関する文章も彼に関する本の書評というかたちで『教育としての遊び』には収録されている。

「昔からペスタロッチがあこがれていたことは、貧しくてほったらかされた大勢の子どもを自分のまわりに集め、かれらの父となることだった。父となるかわりに、かれは世に名高い学園の園長とならざるをえなかった。これが原因で、かれは何度も非常に苦しんだ。貧民学校のことは夢にまでみた。シュミートがイヴェルドンの近くのクリンディに救貧院をつくることができたとき、老ペスタロッチは狂喜した」。この文章こそ、ペスタロッチを語るさいに、いつも思いだすべきことなのだ。ペスタロッチの考えは、その追随者たちの考えとはちがっていたのである。ペスタロッチが人格ということを考えるようになったのは、特権階級の子どもたちとつきあっていたときではない。それを教えたのは貧者や弱者だった。人格というものがどんなに窮屈な表情をみせるものなのか。そして人格というものが、きわめて都合の悪い瞬間においても、自分の道を切りひらきうるものなのか。無愛想で、こわれやすくて、そう、脅迫的ですらあるこの人格を、ペスタロッチは、自分じしんのなかで徹底的に追跡しなければならなかった。この人格というものの発現をこそ、かれはたえず注意しながら、いや身ぶるいさえしながら待っていたのである。ペスタロッチの教育には、手本という考えはなかった。子どもたちなしに、かれは生きてゆけなかった。その子どもたちにかれがあたえたのは、手本ではなく、手であった。かれの好きな言葉をかりるなら、手をさしのべること、であった。その手はいつでもさしのべられる態勢にあった。(ヴァルター・ベンヤミン著、丘澤静也訳『教育としての遊び』

保育士のテキストを読んだだけではイメージすることの難しかったペスタロッチの人物像を膨らませることが出来たと思う。ちなみに保育士のテキストを読みとった私のノートは以下。参考はU−CANの『保育士速習レッスン』である。

近代公教育のパイオニア ペスタロッチ(Pestalozzi,J.H.、1746〜1827) スイス
著書:『隠者の夕暮れ』「王座の上にあっても、木の葉の屋根の蔭に住まわっても、その本質において同じ人間」、『育児日記』
人間は生まれつき平等であるという信念のもと、人間性とは、頭と心と手、つまり知的・道徳的・身体的な諸能力によって形成されるものと考える。言葉ではなく事物による直感教授を基本とする。
生活が陶冶する→幼児期の家庭での生活や人間関係が、その後の学校や社会での人間関係に発展するという意味。幼児期の母親の教育的役割を重視する。


教育としての遊び

教育としての遊び

2012年版U-CANの保育士速習レッスン(上) (ユーキャンの資格試験シリーズ)

2012年版U-CANの保育士速習レッスン(上) (ユーキャンの資格試験シリーズ)

2012年版U-CANの保育士速習レッスン(下) (ユーキャンの資格試験シリーズ)

2012年版U-CANの保育士速習レッスン(下) (ユーキャンの資格試験シリーズ)