ふたりのこいびと―シャンソンと料理

料理・食の描写が上手い多くの作家の中で私が食の好みが合いそうだな、と思っているのは2年ほど前に亡くなったシャンソン歌手の石井好子だ。彼女の歌も好きなら人となりも好きでエッセイも何冊か読んでいる。この度読んだのが「ふたりのこいびと」。読みながら、出てくる料理をあれこれ作ってみたけれど、やっぱりどれも美味しい。作り方には分量などいちいち書かれていないし、もちろん料理写真など載っていないから石井さんの文章を頼りにイメージするしかないのだけれど、それがかえって楽しい。実際石井さんのレシピを写真付きで紹介した「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる―レシピ版」という石井さんの生前に出版された本もあるので石井さんが作っていたものにより近く作りたいとなれば、それを参考にも出来る。「ふたりのこいびと」は、長いこと"ミセス"に連載していた台所随筆とのこと。タイトルの「ふたりのこいびと」はもともとシャンソンで、「私にはふたりの恋人がいる。ひとりは私のふるさと、もうひとりはパリ」とジョセフィン・ベーカーが歌っていたのだが、石井さんにとってのふたりの恋人はシャンソンと料理ということでつけられたようだ。石井さんの私はときどき料理の大家のようにいわれる。しかし正直なところ、料理はあまりうまくない。」「料理というのは、自分がおいしいと思ったものだけおぼえてゆくものだ。そして人にも、自分がおいしいと思うものを食べさせたがるものである。そこにいささかの危険がある。なぜなら自分の好きなものを必ずしもほかの人が好きとは限らないからだ」というような文にあらわれる料理に対する姿勢も好きだ。「ふたりのこいびと」は石井さんがそんな謙虚な姿勢の上で、料理を作る喜びを語り、世界をまたにかけて活躍してきた人ならではの料理を通した人とのつながりを明るく心温まる筆致で描いた本で、その上読者には昔の西洋料理のエッセンスを身につけさせてくれるような名著だと思う。
ふたりの恋人のうちのひとりであるシャンソンに対する想いも料理に較べて分量は短くはあるがもちろん書かれている。リュシエンヌ・ボワイエ、ダミア、シャルル・トルネ、ジョセフィン・ベーカーなど名立たる人物と交流をしてきた石井さんならでは書くことの出来るエピソードを知ることができる。シャルル・トルネは例外かもしれないが、そんな大物たちに心を開かれ、また好かれてきた石井さんの魅力は歌だけにとどまらない。亡くなったこれからも色んなかたちで皆が知ってくれたら良いなと思う。

巴里の空の下オムレツのにおいは流れる レシピ版

巴里の空の下オムレツのにおいは流れる レシピ版