完璧なヒロイン:山脇道子

1919年、建築家ヴァルター・グロピウスがワイマールに興したバウハウスは、1933年、ナチスによって閉鎖されるまでのわずか14年間に、クレーヤカディンスキーなど錚々たる講師陣を揃え、モダンデザインに多大な影響を及ぼすことになる思想を形成、また全世界で活躍することになる優秀な生徒を輩出した造形芸術学校である。ここで学んだ日本人がいたとはつい最近まで知らなかったが、3人の日本人がバウハウスで学び、その成果を日本に持ち帰っていたようだ。その3人とは、水谷武彦、山脇巌・道子夫妻である。山脇道子『バウハウス茶の湯は、バウハウスでの授業、山脇夫妻の留学生活がどのようなものであったのかを、多くの図版と共に知ることが出来る貴重な資料だ。

著者の山脇道子は、地主として生計を立てていた数寄者の茶人を父に持ち、住み込みの女中が4人もいるほどの大所帯で何不自由なく育った。18歳で12歳年上の建築家藤田巖(巖は婿養子となる)と見合いをし、結婚。彼についてハワイやニューヨークを経由しドイツに渡った道子は、巖と共に試験的にではあるがバウハウスへの入学を許可される。ヨゼフ・アルベルスやヴァシリー・カディンスキーの授業を受けながら熱心に勉強した道子は、日本で造形教育の経験がなかったに関わらず、わずか半年で正式にバウハウスへの入学を許可されるのだ。夫にくっついて試験的に入学を許可されるまでは普通だが、きちんと作品を提出し、入学を許可されたのだから、財力も関係ないれっきとした実力だろう。親切な大家が朝食や掃除をしてくれる下宿生活、面白い仲間たちや先生を招いてのパーティーバウハウスを見学に訪れる日本人との交流、時代の最先端を行く講師の魅力ある授業、同じ学生として良き同士でもある夫と徹夜したりして制作に没頭する生活。勉強をきちんとやってこそ格好がつくことを前提とし、私にとっては学生生活の理想形態だ。収録されている写真は主に巌が撮影しているのだが、そのレンズを通したまなざしからは、巖の道子への愛情も伝わってくるし、道子はほんとうにモダンで美しい。
実際は、そんな良いことばかりではなかったかもしれない。巖は亭主関白なところもあったらしいし、貧しい学生も多かった中、裕福な学生生活を送る二人へのやっかみも時にはあったらしい。ナチズムが台頭する中、恐ろしいものも多く経験したことだろう。実際、よき先輩であったオッティ・ベルガーは強制収容所で亡くなったという。そのような暗い部分はほとんど(たぶん意図的に)省かれてあるのだが、この本に収められている山脇夫妻のフォトモンタージュ作品からは、確かに時代の最先端を行くモダニストとしての時代の流れに対するぎりぎりの抵抗も感じさせられる。学生生活がメインの本ではあるが、日本へ帰国後は、まだ23歳。モダンガールの代表としてもてはやされ、ファッションモデルまでこなす。もちろん帰国も制作活動は続け、講師もしたりしてバウハウスをきちんと日本に伝えた。子育てもこなし、美しく年を重ねられた著者近影と、経験に裏打ちされた謙虚な言葉に、しめくくりでもまた一つため息が出た。最近、NHK白州次郎・正子夫婦の物語をドラマ化しているけれど、こちらの夫婦の話もどなたか映像化して欲しい。同世代だろうなと思ってみてみたら山脇道子は白州正子となんと同い年でした。

私の人生の中でのバウハウスというのは、楽しかった、という一言に尽きます。ほんとうに楽しかった。自由で、気楽で、何でも思うようにやれました。援助を惜しまなかった父には感謝の念が尽きません。もし、同じ時代の同じような環境に生まれ変わるとしたら、やはりバウハウスへ行きたいと思います。そしてもう一度巖と結婚します。その時は、ただ黙って巖にくっついているような生き方ではなく、もっと積極的になることができればと思います。(山脇道子『バウハウス茶の湯』)


バウハウスと茶の湯

バウハウスと茶の湯